2013年9月18日水曜日
リサイクル学:本の紹介「クリエティブリユース 廃材と循環するモノ・コト・ヒト」
「クリエティブリユース 廃材と循環するモノ・コト・ヒト」を拝読。
世界中の廃材に対するアプローチを紹介した著書。
廃材を如何に活かしていくか。
ざっくりとまとめると、
・廃材を大量に多品種に揃えたお店やセンターなどの箱を作る。
・廃材を地域で売買
・廃材を活かしたワークショップ、たとえばセンター内にある廃材を組み合わせて何かを作る。
・上記のワークショップを学校などに派遣
地域のヒトに安く還元することと
地域の子供たちに廃材への関心とモノを作るという根源的な楽しみを提供する。
この2つが大きな意義として存在している印象を受けた。
ヒトは編集する生き物であり、
多くのもが作られ捨てられ「廃材」とみなされたモノにでも
もう一度何かを「見出す」ことができる。
再編集とでもいうのか、それをつまりクリエイティブリユースというのだろう。
ここには0から1を作るというのか、マイナスをプラスにするというのか、
いろんな編集のしかたによってモノが再び輝く姿が浮かんでわくわくしてくる。
そして、その周りを囲むヒトの活気が目新しさを囲む人だかりとは違う。
なんというかより人間ぽいのだ。
目の前のものがどうしたら輝くか、見つめてみたり、ヒトと意見を交換し耳を立ててみたり
触ってみたり、少しいじってみたり、言葉を添えて新しいコンセプトを与えてみたりと、
ヒトがヒト足りうる知性を存分に活かし編集している。
その知性は教育を受け培われたものでなく、
幼少のときから備えていた、無我夢中で遊びを作り出すあの集中や発想に根ざした知性。
根源的な、より人間的な知性と編集がそのひとだかりを飛び交っている。
そんないきいきとした空間を思わせる。
日本の具体例にでてきたクリエイティブリユースでは
コミュニテイデザインやリマーケティングビジネスと新しい言葉が出てくる。
新しい言葉やコンセプトが生まれるとうことはクリエイティブがそこに含まれてることの証拠である。
終始わくわくさせられる。
「廃材」という1度不要と決められたモノたちにわくわくさせられるのは、なんというか本末転倒な気もするが。。
この世界に不要なものはない、それはヒトが決めただけのことである。
世界のあちらこちらではこうして必要とされるのだから。
おそらく不要となったのはそのモノでなく、それを所有していたヒト自身のアイデアや発想が枯渇してしまったからであり、不要なアイデアがそこにあったからだろう。
視点を変える。新しい見え方を編集する。
ヒトができるのはそれくらいであるが、それがあればどこまでも可能性はある。
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